インド熱もようやく冷めてきたので、少し考えたことを備忘録的にまとめてみよう。
半月の貧乏インド旅行を振り返ると、色々楽しくないことや不愉快なこと、ムカツクこと(良いことはなかったのか!?)が思い出されるが、痛烈に実感させられたのが、「価値観の相違」である。「良いこと悪いこと」の判断基準から死生観まで全く違うのだ。日本人的な価値観でインドに生きる人を評価する姿勢では、インド旅行から得るものは殆ど無かっただろう、と昨日旧友との会話から痛感した。
例えば、お金を稼ぐために平気で嘘をつく人々。生まれてすぐに一生「物乞い」として生きていくことを義務づけられ、両親に足や手を切断されてしまった人々。街中でも聖なる地でもお構いなしにゴミを捨て唾を吐きちらす人々。彼らを見てさすがに伝統的価値観を持つ(と自負している)私ならずとも不愉快な気分になるだろう。これは仕方がない。純粋な生理的現象であり、半月そこそこの旅行で変えられる物ではないからだ。
しかし、彼らについて「是か非か」の判断をするのはどうか。ついつい、「これだからインド人は…」「どうしようもない奴らだな、インド人は…」と無意識に思ってしまう(もちろん、5%くらいはNice Guysも居り、彼らには大いに助けられ、楽しませてもらったが)。これは日本人のみが共有し、おそらくインド人にとっては異端である価値観で評価するからであり、極めて不遜な姿勢である。これでは自分の共有しない価値観を受け入れることは到底出来ないのだ。
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インド人と私たちの最も大きな違いは死生観にあると思う。
私がインドで考えた「死」とは何か。
例えば、ヒンズー教の聖地であるガンガーの畔にある火葬場・マニカルニカー。火葬場といっても何もなく、コンクリートで固められた川辺で薪を並べて死体を火葬するのである。日本にいれば死体を目にすることは滅多にないが、ここでは違う。絶え間なく担架で人間の死体が担ぎ込まれる。死体は綺麗な布に包まれているものの明らかに人の形をしているので、一目でそれと分かる。辺りには何とも言えない異臭が漂う。薪で数時間火葬するだけなので遺体は完全には焼けない。その状態のまま、川に流されるのである。墓を作らないヒンズー教徒にとって遺灰(というか焼かれた遺体)をガンガーに流されることが最大の幸福なのだそうだ。親類の葬式で涙に暮れている遺族のすぐ隣で、ヒンズー教における最高の“聖地”で、堂々と詐欺を働こうとする連中の存在をどう評価するか。「ケシカラン」というのが日本的価値観であろう。「罰が当たるぞ!」てなもんである。
しかし、ひょっとして、インド人にとっては、ヒトも犬や牛、草木と同じ生物の一種であり、死ぬも生まれるも極々自然なこととして捉えているから、詐欺をも許容してしまうのかもしれない。実際、マニカルニカー・ガートの10mも離れない場所では、男が石鹸で体を洗い、女が洗濯をし、牛は水浴びをし、犬は焼け残った肉片を頂戴しようとウロウロしているのである。他のガートと相違ない光景なのである。
日本では「死」は決して日常に触れないところに存在すると私たちは考えている。実際、「死」や死体を目の当たりにすることが日常どれくらいあるだろう。「死」は極力触れずにいたい、考えずにいたい、忌み嫌うものとして捉えている。しかし、マニカルニカーでは180度違う。「死」や死体は日常のものとしてそこにある。
私がインドで考えた「生」とは何か。
「手足がない物乞い」。話はもちろん聞いていたが、実際にリシケシで多くの「手足がない物乞い」を見たときはかなりのショックで、理由なく目から涙が落ちてしまい、大いに困った。この人たちを見て「気の毒だ」、「親は何を考えているのか」、「何のために生を全うするのだろう」などと思うのが日本人的価値観であろう。しかし、果たして、本人達は「自分が不幸な存在であり、悲しみに暮れている」のだろうか。「生きることの意味は何か」などと考えているのだろうか。
どれだけ経済が発達し、人が豊かになっても、効用は「人との差異」から生まれるという。絶対的裕福さではなく、相対的裕福さから効用が生まれるそうだ。インドにおいては、カースト制度がかつて存在した(今も残るという)。紀元前13世紀頃に出来たと言うから3000年の歴史があるのだ。日本では士農工商という身分制度があった。また、日本でもインドでもカーストや士農工商に属さない人々が存在した。身分制度に属する人たちの効用を上げるために置いたのだろう。この人達はどんなに努力をしてもこの身分から抜け出すことが出来ないのだそうだ。とすると、「生きることの意味」を彼らは考えるのだろうか。努力しても何も叶わない、決して抗えないのが彼らの人生であり、果たして彼らはその意味を考えるだろうか。
実際、ヒンズー教にも、また仏教にも「輪廻転生」という考え方がある。これは、Wikipediaによると「生き物が死して後、生前の行為つまりカルマ(karuman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わること」である。ヒンズー教でも仏教でもこの輪廻転生から抜け出し、二度とこの世に生まれてくることのない「解脱」こそが最高の理想なのである。要するに、生を受けて死を待つ「生存」の時間が「苦」なのである。この思想から「生きることの意味」という概念が果たして生まれるのだろうか。
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要するに、生物体である我々が決して逃れられない、「生きること」と「死ぬこと」について、その解釈が全く違うらしい、ということが分かったのがインド旅行での収穫である、というのがこのブログの結論。長い。長すぎる。文章が下手だ。